生産終了
1/5 WOLF(ウルフ)生地完成機
■製品内容
○スライドアップ式スポイラー装備
○主翼2分割構造
■スペック
全幅=2800mm
全長=1260mm
主翼面積=61d㎡
飛行重量=1900〜2300g
■推奨パワーユニット・メカ
ブラシレスモーター(φ37mmクラス)/プロペラ(11×6折れペラ)/リポバッテリー(3S 2200〜2500mA)
モーターコントローラー(40〜70A 等)/送受信機(6ch以上)/サーボ(5個)
※本キットに人形は付属しておりません。
○製品特徴
キットは実機資料から1/5にスケールダウンし、複雑な胴体構造を完全レーザーカット化し、扱いやすいサイズにまとめました。
※生産終了
■実機「ゲッピンゲン1型 ウルフ」について
実機は、戦前・戦中を通してドイツ滑空界の第1人者であり、ホルンベルグで滑空学校を経営していたヴォルフ・ヒルトが自社工場で設計・製作した一連の「ゲッピンゲン」シリーズの第1弾である。エルロン部の特徴的な主翼の平面型は、あまりにも有名な単座機Go3「ミニモア」とその原型機たるグルナウ7型「モアツァゴトル」、さらにサイドバイサイドの複座機Go4「ゴビエル」に至るまで踏襲されている。
また、世界各国の当時のこのクラスの同型機の設計に絶大な影響を与えた機体である。型式名である「ゲッピンゲン」とはドイツのシュトゥットガルト近郊の町で、当時ヒルトが彼のパートナーであるマーチン・シェンプとともにこの町に設立した軽飛行機製作工場「シュポルトフルークツオイクバウ・ゲッピンゲン」(現「シェンプ・ヒルト社」の前身)に由来する。この記念すべきシリーズの第1弾「ヴォルフ」は、当時すでにこの型式の滑空機としてはほぼ完成の域にあった有名な練習用ソアラ「グルナウベウ・ベビー」(エドモンド・シュナイダー設計)のより頑丈で強固な性能向上型機として1935年に設計、リリースされた。プロトタイプの初号機には、恐らく彼の愛妻の名にちなんで「ムステルレ」という名称が付けられていたと思われ、機種にその名を書き込んだ写真が散見できる。
胴体、主・尾翼共に木製で、オープンコックピット。主翼は胴体上方に、カバーされたパイロンによって固定され、支柱付きである。翼断面型は翼根から中央翼までは、当時ドイツでは最もポピュラーであったGo535が採用され、翼端にかけては対象型へとプログレッシヴに変化している。翼端部にはコードの大部分を占めるエルロンを含め若干の捻り下げが施されている。水平・垂直尾翼はいずれも対象翼断面である。グルナウベビーとの主な相違点は、当時としては一般的でない単車輪をランディングギア部にビルトインし、標準装備としていたことと、操縦系統においていくつかの面で簡略化がなされ、ラジカルでセンシティブな飛行特性を与えられていたことである。また前述のように主翼翼端にまで及ぶ大きく張り出したエルロンを含む主翼平面形が特徴的である。これらのアレンジの結果として、この機体は初期タイプにおいてはスピンに入りやすく翼端失速を起こしやすい特徴があったと思われる。しかしこのことは反面、ヒルトのような卓越した操縦技量をもったパイロットにとってはその意思を機体の隅々にまで伝えることができ、機体と一体化することで高等で素晴らしいデモンストレーション飛行を可能としたようである。
事実、イギリスに輸出されたこの機体の一機がサーカスで採用され、高名な女性パイロット、ジョンミーキングはヴォルフ・ヒルト自身が曳航した後、数々の高等飛行を大観衆の前で披露したというエピソードも残されている。ところでこの機体は戦前日本にも少数輸入されている。昭和10年(1935年)10月、当時の日本陸軍の招聘によって来日したヴォルフ・ヒルト一行は?の「ヴォルフ」と新造したての高翼の「ミニモア」、曳航機としてクレムL25軽飛行機を持ち込み、日本各地の主要な飛行場で高等なデモンストレーション飛行を行い、萌芽期にあった日本の滑空界に絶大な影響を与えている。大阪の盾津飛行場における展示飛行では約2万人の大観衆の前で上昇反転、きりもみ、連続宙返り、超低空飛行から急激な引起こしなど数々の妙技を披露して観客を熱狂の渦に巻き込んだ。
このヒルトの来日は、日本における滑空飛行、滑空機製作の両面において新風と活力を吹き込み、後に昭和15年の幻のオリンピック競技機オリンピア・マイゼの輸入、日本各社ので競作、数々の記録飛行を生み出すことにつながることとなる。
この「ヴォルフ」についてだけでも、日本では少なくとも2機のコピー機が製作された。1機は大阪の福田軽飛行機製の「光式3-1」型であり、もう1機は美津濃グライダー製作所製の「美津濃301」型である。これらの機体はグルナウベビーの影響も含め、設計面においては原型機に酷似しているものの、いずれも重量面においては原型機よりも軽く仕上がっており、滑空比、帯空性能においては若干の向上が図られたようである。もちろんヒルトが残していったものは機体と製作図面のみだったようで、コピー機の製作にあたっては各社とも設計計算書、仕様書についてはすべて日本独自のノウハウを盛り込んで一から新たに再設計されている。なお、「光式3-1」については特別にイギリスのカービィカイトのような流線型の丸同タイプも設計されていた。
また余談になるが、ヒルト一行が約3ヶ月間の滞在の後帰国する際、持ち込んだ機体は全て陸軍に献納されたようであるが、本モデルのコマーシャルマーキングの元となった大阪毎日新聞社社有機は、ヒルトが持ち込んだ機体ではなく、「大毎」が新たにヒルトのゲッピンゲン軽飛行機会社に発注したものと考えられる。
さてモデラーにとっては最大の関心事のひとつであるこの機体のマーキングと塗装色についてであるが、胴体についてはモノラルな線と機体登録番号、主翼には前縁Dボックスの終端付近に添ったやはり先細の単純線、もしくは翼接合部を起点とした放射状の複数線が描かれることが多かったようであるが、色についての確かな立証材料は殆ど残されていない。
有名な滑空機研究家マーチンサイモンズの著書によれば、本モデルが参考とした大毎社有機はベーシックカラーがクリームホワイト、マーキングがライトブルー尾翼回りの文字の書き込みはブラックであったろうとされている。しかし、当時の滑空界関係者によれば、この個体のマーキングは赤色であったとの証言もあり、今後の新資料の発見が望まれるところである。
なお、ヒルト自身がデモ機としてが持ち込んだ機体については更に資料がなく、胴体がモノラルの黒の単一塗装、主翼は羽布の原色のクリームホワイトで翼上面にモノラルな線が引かれていたと推測されるが明確ではない。
解説: 岡山在住 古典グライダー研究家 川鰭晃氏